“名古屋めし”が戦後の食糧不足を救った 屋台から始まった「どて焼き」をたどる【戦後80年】 (25/06/12 18:00)
ボリュームっぷりの味噌カつ 熱々のド鍋で食べる味噌煮込みうどん 今や全国の人たちから愛されている名古屋 飯 戦後の混乱機から立ち上がろうとする人 たちを支えたメニューがあったんです 東業100年名古屋 市作にある味噌煮込みうどんの死山本屋大手店です 今日はよろしくお願いします どうぞよろしくお願いします 3代目天手の浅井中さんと妻の明夫さん第 2次世界大戦が終わった 1945 年当時はまだ子供でした思い出すのは深刻な食料不足です 境のあたりでも爆弾が落ちたりあれしたりから空き地がたくさんあるからさとか枝豆とかみんな作って葉っぱとか軸とか食べたんじゃない 食べるもんがないからね食べれるものは何でも美味しい食べちゃうからね 戦後の話なんですけど外食というものをはできたんですか 外食らんな 路点ぐらいだね露点ぐらい 名古屋空州で八野原となっていた 広浩司通りや大洲などの中心部 日没と共に姿を表す夜間だけの飲食店とし て路点屋台が並びました 名古屋市博物館によると最盛期には宣言を 超えていたと言います 飯のうん あの底からかもしれんその屋台が人間がこれこんな辛い思い戦争で思いしてきたんだから早上がるんだっていうような気持ちで 山本屋の夫婦は当時屋台は仲間だったと話してくれました 一方名古屋市の代表とも言えるやトンも屋台から始まったと言います 屋台を引いてたっていうのは聞いてるんでま屋台から始まったんでしょう屋台を引いて始めたんでしょうねさらに 串カツあげてのところに落としちゃったの食べてみたらこれうめえじゃんっていうので味噌カつが始まったって言われてるぐらい 鈴木さんによるとヤバトンの味噌カツは屋台の土手焼きに串カツを入れたことで誕生したと言います 当時の土明とは今でいう未総伝 戦後市民を支えた名古屋市の代表とも 言える存在でした そんな土焼きを戦後の屋台で提供してい た名古屋市中区の死偽舗省を尋ねました よろしくお願いしますこちらよろしくお 願いします の2代目村彦さん 1949 年の創業当時屋台があった場所まで案内してもらいました この辺りかな この辺りにちょうどあった どれぐらいのサイズのものなんですかね ちょうどさ大さで行ったらこの 2つ分ぐらいかな 2mかそこらだろうな終戦が昭和20年だ から昭和22年3年の時代屋台を組むため のあの連もなければ柱もない1つない時代 だから残ったようなものを持ってきては それで何でも作ったんだよ 当時橋から坂江の丸百貨店までの 1.5kmの間におよそ400件の屋台が 道路の両側に並んだと言います そんな屋台外で店を始めたのが佐田彦さんの父信彦さん私の親父っていうのはねやっぱり戦争に行ってるんだ帰ってきたら会社自体がもうほとんどなくなったような状態だから雇ってもらえないただ明日の食べ物をなんとかするためそのために生きてくために必死だったんだよ 戦後を生き抜くために始めた人が多かった という屋台 およそ6割の屋台が出していた定番 メニューが手軽に作れる名古屋飯土焼き だったそうです 当時の屋体流の土手焼きを見せてもらう ことに はいはいこれが土定焼きって言いますね 宴会の時に出すものなんだけどこういう形で昔の屋台の鍋が作られてたの 6 人用の鍋に味噌の味が染み込んだこにゃ豆腐大根などの串がたくさん入っている土手焼き戦後の屋台でも見た目は現在とほぼ同じだそうですが 中身は敵なるものっていうか全く別もと言ってもいい [音楽] それは何かって言ったら味な何でもえで食べれるものがあったら食べたかったっていうそういう時代だったからとにかくあの甘いものとにかく辛いものとにかく味の濃いものそういうものをやっぱり求めてたんで 食に植えてる人にとってはやっぱり濃いものが うん それはさ美味しいもの食べたいのは誰だとそうだけど美味しいよりもとにかく腹膨れた方がいいじゃない屋台のお客さんは船員街の職人や広通りで働く会社員味噌座の役者など様々戦後名古屋の復興を担ってきた人たちは味の濃い土手焼きを求めて屋台を訪れたそうです でボクをしとった人178だろうなお金が ねと金がないけどもお客として来て食べる じゃん10本食べても5本下に捨てちゃえ ば5本の感情じゃんだけど親父は駆使 し捨てたって ちゃんと分かっとるんだであのの絵であの そんなこそこそするなと言ってあの特に 安くこう食べさしだったりさだみんなで とにかくあの助け合って生きてかっていう ようなそんな感じだったと思うよ 名古屋の復興と共に歩んできた屋台名古屋 市博物館によると1973年屋台は都市 景官や衛生環境などを理由に廃止されまし た それでも名古屋市は今に受け継がれてい ます 愛知泊で名古屋飯って言葉が出ましたけど そこまで父や祖父やね仙台先世代その前 からかなもしかするとね地元の人たちに 愛され守られる料理っていう意味で守って きてくれたからこそのうん名古屋飯ですよ ね名古屋をま発信する日のめてく守ってく そういう覚悟を持っては やっていこうかと
名古屋のご当地グルメと言えば、知名度は全国区の「名古屋めし」。これが戦後の市民を支えたとも言われているんです。
ボリュームたっぷりの「味噌カツ」に、あつあつの土鍋で食べる「味噌煮込みうどん」。
いまや全国の人たちから愛されている「名古屋めし」。
戦後の混乱期から立ち上がろうとする人たちを支えたメニューがあったんです。
創業100年。名古屋市千種区にある味噌煮込みうどんの老舗「山本屋 大久手店」。
3代目店主の浅井仲治さん(86)と妻の昭代さん(82)。第2次世界大戦が終わった1945年当時は、まだ子どもでした。
思い出すのは、深刻な食糧不足です。
「栄でも、爆弾が落ちたりして空き地がたくさんあるから、(畑にして)サツマイモや枝豆を作って、葉っぱや軸(芋つる)を食べたんじゃない?」(昭代さん)
「食べる物がないからね。食べられるものは何でも『おいしい』と食べてしまう」(仲治さん)
Q.戦後、外食はできた?
「外食なんて…露店くらいだね」(仲治さんと昭代さん)
日没とともに現れる”夜間だけの飲食店”
名古屋空襲で焼け野原となっていた、広小路通や大須などの中心部。
日没とともに姿を現す”夜間だけの飲食店”として、「露店」いわゆる屋台が並びました。
名古屋市博物館によると、最盛期には1000軒を超えていたといいます。
「“名古屋めし”の底力かもしれん。人間がこんなに戦争で辛い思いをしてきたんだから、みんなで這い上がるんだという気持ちだった」(昭代さん)
山本屋の夫婦は当時、「屋台は仲間だった」と話してくれました。
一方、名古屋めしの代表ともいえる「矢場とん」も、屋台から始まったといいます。
「屋台を引いていたというのは聞いているので、屋台から始まったんでしょうね」(矢場とん3代目 鈴木拓将さん)
さらに…。
「串カツを揚げて、“どて焼き”に落として食べてみたら『これうめ~じゃん』というのでみそカツが始まったと言われているくらい」(鈴木拓将さん)
鈴木さんによると、「矢場とん」の味噌カツは、屋台の”どて焼き”に串カツを入れたことで誕生したといいます。
当時の”どて焼き”とは、今で言う「みそおでん」。戦後、市民を支えた「名古屋めし」の代表ともいえる存在でした。
屋台の定番メニュー”どて焼き”
そんな”どて焼き”を戦後の屋台で提供していた、名古屋市中区の老舗「島正」を訪ねました。
店の2代目・喜邑定彦さん(79)。1949年の創業当時、屋台があった場所まで案内してもらいました。
「この辺りにちょうどあった。(屋台のサイズは)2mかそこら。終戦が昭和20年だから、昭和22~23年の時代。屋台を組むための暖簾も柱もない、何一つない時代だから、焼け残った物を持ってきて何でも作ったんだよ」(喜邑さん)
当時、納屋橋から栄の丸栄百貨店までの1.5kmの間に、約400軒の屋台が道路の両側に並んだといいます。
そんな屋台街で店を始めたのが、定彦さんの父・信彦さん。
「私の親父は戦争に行っているんだわ。帰ってきたら、会社がほとんどなくなったような状態だから、雇ってもらえない。ただ明日の食べ物を何とかするため、生きていくために必死だった」(喜邑さん)
戦後を生き抜くために始めた人が多かったという屋台。
約6割の屋台が出していた定番メニューが、手軽に作れる「名古屋めし」、”どて焼き”だったそうです。
戦後の屋台流の”どて焼き”を再現
当時の屋台流の”どて焼き”を見せてもらうことに。
「これが”どて焼き”。(現在は)宴会の時に出すものだが、このような形で屋台の鍋が作られていた」(喜邑定彦さん)
6人用の鍋に、みその味が染み込んだこんにゃくや豆腐、大根などの串が沢山入っている”どて焼き”。戦後の屋台でも、見た目は現在とほぼ同じだそうですが…。
「中身は似て非なるもの。全く別物と言ってもいい。何かというと味。何でもええから食べられる物があったら食べたかった時代だから、とにかく甘いもの、辛いもの、味が濃いものを求めていたんだよ」(喜邑さん)
Q.食に飢えている人には濃いものが好まれた?
「そりゃおいしいものを食べたいのは誰だってそうだけど、おいしいよりとにかく腹がふくれた方がいいじゃない」(喜邑さん)
受け継がれた“名古屋めし”
屋台のお客さんは、繊維問屋街の職人や広小路通で働く会社員、御園座の役者などさまざま。戦後、名古屋の復興を担ってきた人たちは、味の濃い”どて焼き”を求めて屋台を訪れたそうです。
「(繊維問屋街で)丁稚奉公しとった人、当時は17~18歳だろうな。お金がないと金がないけども、客として来て食べるじゃん。10本(串を)食べても、5本下に捨てちゃえば5本の勘定じゃん。親父は『串を捨てたって、ちゃんと分かっとるんだで。もうええで、そんなコソコソするな』と言って、特に安く食べさせてあげたりさ。『みんなでとにかく助け合って、生きてこみゃあか』というような、そんな感じだったんだと思うよ」(喜邑定彦さん)
名古屋の復興とともに歩んできた屋台。名古屋市博物館によると、1973年、屋台は都市景観や衛生環境などを理由に廃止されました。
それでも「名古屋めし」は今に受け継がれています。
「愛・地球博で“名古屋めし”という言葉が出たが、父や祖父、先代、先先代、その前から地元の人に愛され守られる料理として守ってきてくれたからこその“名古屋めし”ですよね。“名古屋めし”を発信する、広めていく、守っていく。そのような覚悟を持ってやっていこうかと思います」(3代目を継いだ喜邑竜治さん)






